「弱さ故に強い人たらし、『場』を大切に育む男」~Doingの背景のBeingを探る~「キャリクラ酒場」vol.12
「恵比寿の飲み屋で、何処に行っても『塁さん』の話を聞くんです。そんな人って、なかなか居ない。きっと素敵な人に違いないって、とても興味が沸いたんです」
これは、今回の主役、鶴田塁さんの奥様であるかおりさんが馴れ初めを語ってくれた言葉です。6月3日に開催したキャリクラ酒場第12弾は、初めてご夫婦お二人でご登壇、鶴田夫妻が営む恵比寿の「5 bottles」にお邪魔させて頂く形で開催致しました。
塁さんとは、お互いに労働組合の専従をやっていた頃から、かれこれ15年以上のお付き合いですが、私もその不思議な魅力に魅せられてきた一人。いつか根掘り葉掘りしたいと考えていて、漸くこの回が実現し、こうして記事としてもお届け出来ることが嬉しくて仕方がありません。
そんな塁さんは1973年、茨城県水戸市に生まれ、お兄さんと2人兄弟の母子家庭で育ちました。物心つく頃には両親が離婚しており、家庭の空気はちょっと暗かったのですが、それを特に不幸だとは感じていなかったそうです。
中学に入る頃から反抗期が始まり、お母さまと口をきかない時期が続きました。同時に人との関わり自体が苦手になり、友達も少なかったので学校への関心も薄く、授業や朝礼を欠席することも多かったとのこと・・・今の塁さんからは全く想像がつきません。当時、そんな塁さんを夢中にさせたのは洋楽ロック。思春期の繊細さ故か、日本語の歌詞が耳に入ると色々な考えが浮かんできてしまうのが苦手で、Guns n' rosesやMetallicaといったハードロック系のバンドを好んで聴いていました。
高校時代も授業にほとんど出席せず、校則の緩さに救われる形でなんとか卒業しました。唯一の例外は面白そうだなと入ったラグビー部の活動。体格にも恵まれ、主にフォワードとして活躍しました。監督不在のチームで、一生懸命取り組んでいたら選挙によってキャプテンに選ばれるという「人たらし」ぶりを発揮します。同学年で一番最初にレギュラーになって信頼されていたということもあり、技術面でチームを引っ張り、練習メニューも自ら考案し、部活だけは一度も休まなかったそうです。
そんな中高生生活だったので大学進学は諦めていましたが、お母さまから「人生の選択肢を広げるためには必要」と説得されました。勉強習慣が無かったので、2年間の浪人生活でも大した勉強はせず、それでもなんとか大学へ進学。
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大学生活では一層自由奔放になり、授業には殆ど出席せず、部活動もせず、アルバイトに打ち込む日々でした。
最大で3つのバイトを掛け持ちし、引越し、土方、寿司屋、百貨店の物流センターなど多種多様な現場を経験。長期休暇中は月30万円以上稼ぎ、半年で100万円を貯めてバイクを買って北海道一周の旅に出たりもしました。親が学費と家賃を負担してくれていたため、稼いだお金は自由に使えたのです。全てのバイトは「むちゃくちゃ楽しかった」とのこと。大人と触れ合えることや、自分で選んで働けることが魅力だったそうです。この頃の写真はほら、キムタク風の長髪で、いかにも自由人です。
塁さんは就職氷河期世代。それでも、応募企業を5〜6社に絞り込む豪胆ぶりを発揮し、親しみのある企業を中心にエントリー。カルピス、コカ・コーラ、アディダス、プーマ、サンリオ、ディズニーランドなどを受けました。サンリオの可愛い世界観には昔から魅力を感じており、最終面接まで進むも、カルピスの内定が先に出たことで辞退。「飲み物って一番手軽に幸せを感じられるものだなぁと。そこに自分が関われたら幸せかなぁと」入社を決めました。もしもサンリオに進んでいたら、今頃塁さんはピューロランドの支配人あたりになっていたかも?ちょっと妄想が沸いてしまいました・・・。
そして1998年、カルピスに入社。最初の配属先は広島。「新規開拓などは無くて、全部ルート営業なので、誰でもなんとなくふんわりできる、非常にソフトな営業活動でした」と学生時代のアルバイトの延長のような感覚で、「仕事って楽しいな」と前向きに四年半を過ごしました。広島の営業所は小さい組織で、支店長を筆頭に「みんなで頑張っていこうね」と和気あいあい、とても働きやすかったそうです。
四年半の広島勤務を経て、大阪へ転勤。組織が大きくなると仕事の細分化が進み、仕事上のコミュニケーションも限定的になり、部門間の壁が生じやすくなるということを肌身で感じました。やがて入社2年目から分会長を勤めていた組合活動にも本格的に参画。入社8年目には自ら手を挙げ、営業出身者として初めての組合専従へ。
実務の中心的ポジションである書記長を4年間勤めます。
この時、同じく味の素労組の専従であった私と一緒に、中長期目線でワークライフバランスやキャリアを考えるワークショップを組合員向けに共催したのですが、ここで塁さんは自分のキャリアを予測してみた時、10年後・20年後の自分の給与が少しずつ上がっていくことを想像して、「お小遣いをもらっている感覚で面白くない」と違和感を覚え、「安定はしているけれど、果たしてこれでいいのか?」という疑問が頭に残ったのを覚えているそうです。
2011年からは復職し、会社の本業と兼務で委員長に就任します。会社と組合が一体となってより良い職場環境を目指す協議・交渉が活動の中心でしたが、工場閉鎖や100%子会社化など大きな環境変化も経験しました。
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その後、幾つかの職場を経ますが、「悔しい思い出」として残るのは「ダブルカルチャード」のこと。カルピスとビールを混ぜたカクテル(シャンディーガフのようなもの)を考案し、部内で「POP代50万円だけくれれば充分」と予算を申請。恵比寿で週3日、1日3件飲み歩いて案内活動を実施、それなりに盛り上がり、社内でも高い評価を得ますが、組織目標に落とし込む前にまた異動となり、「もう一歩だったのに」と・・・と振り返ります。どんなお味?と興味が沸いた方、今、「5 bottles」でも飲めますので、是非お試しを。
2014年には工場へ異動、これも塁さんにとってひとつの転機となりました。営業出身者が工場で責任者になるのは社内で初めてのことで、塁さん自身も「ものづくりの現場に行ける」と奮起。工場用語が分からず苦労し、14時間労働や土曜出勤もする程がむしゃらに働きます。工場の方々は「良いものを作る」意識は強いものの、ブランド意識は希薄だったため、地元の市役所、商工会議所、観光協会などと連携して「工場見学」をふるさと納税にしたり、桃を使ったご当地カクテルを開発したり、地域連携を推進します。市民からも好評で、工場という「箱」があるからこそ、その存在が地域の誇りとなっていることを実感し、塁さんのカルピス愛はますます深まったのでした。
しかし2012年、カルピス社はアサヒホールディングスに吸収されていました。2016年には、アサヒ飲料とカルピスの事業会社が統合され、「カルピス」という会社名自体が無くなることに。
「カルピスのことがとても好きだったから、カルピスじゃなくなることが嫌だった」塁さんは、強い抵抗感を抱いて人が変わったように暗くなり、仕事へのモチベーションも下がり、最低限の業務しかこなせなくなってしまいます。家庭での会話も減ってしまい、公私ともにボロボロな状態となって、ついに2017年に退社。
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今度はたまたまご縁を頂いた岡山の会社で3年間、飲食部門の立ち上げ、居酒屋のM&Aや、フルーツサンド店・ピザ屋など複数店舗の経営に携わります。店長として現場にも立ち、業者との取引も担当し、学びは多かったものの、組織勤めであるが故の不自由さも感じ、「このままサラリーマンをあと20〜30年続けるのはしんどい」と退職を決めます。
そして2020年。カルピス社時代の地元、恵比寿で「ダブルカルチャード」を提案して約200軒の店舗を回っていた頃に仲良くなった、飲み友達でもあったあるオーナーから「店を譲りたい」と提案され、8月に居酒屋を開業します。コロナ禍の最中ではありましたが、恵比寿中の飲み屋を回っていた経験と土地勘、人脈、飲料メーカーの知識、岡山での飲食店舗運営の経験もあったことから、「全く不安がなかった」とのこと。「町中華」のように地域に溶け込み、いつでもやっていて、でも常連だけで固まらず、初めてのお客様でも気軽に入れるウェルカムな雰囲気、日常的に利用される飲み屋を目指して運営。料理も6品程度のつまみメイン、バズらない変わらない味を意識しています。
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離婚を経て、新しいパートナーとなったかおりさんと2人で毎日お店を開けると色々な友達が飲みに来てくれ、「これが天職だった」と思える程楽しく、順調な店舗運営をしていましたが・・・塁さんご自身の体調不良により状況は暗転します。
2023年1月頃から高熱が出始め、2月には突発性難聴を発症。8月の3周年まではアドレナリンでどうにか乗り切りましたが、その後はめまいや嘔吐など、症状が悪化。営業中も立てなくなって閉店を余儀なくされたり、常連客の助けを借りて帰宅したり、救急車で運ばれたりすることも。サラリーマン時代は年間125日くらい休んでいたのが、店舗運営では年間60日程度の休みとなり、無理をしていたことが祟ったのでしょう。家賃などの固定費が高く、貯金が急速に減っていったため、メンタルも崩壊状態になり、「お店をやめようか」と真剣に考えるようになりました。
脳神経外科、耳鼻科、めまい科、内科など病院を11か所受診した結果、明確な原因は特定できなかったものの、血流の悪さ、メニエール病に類似した三半規管の機能低下、ストレートネックなどが指摘されました。
その後、めまい発症前の食事がすべてグルテンを含むものであったことに気づき、グルテン摂取を中止したところ症状が回復。かおりさんの協力により、生活を大きく見直し、お酒の摂取を制限したり、血流改善を意識してお風呂に入ったり、血液をさらさらにするのに良いと言われる玉ねぎのスライスを毎食食べたりした結果、現在では少しずつ良くなっているそうで、「これはひょっとしたら治るかもしれない」と前向きな兆しを感じています。
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倒れてからもうすぐ二年が経ちますが、今回、改めてご自身のキャリアを振り返り、アルバイトや営業経験、人との付き合い方など、過去のすべてが今に繋がっている感覚を覚えているそうです。例えば、モチベーションの源泉は勝ち負けではなく、人、ブランド、コトなどへの愛情から。人と人が繋がる「箱」や「場」の発想、地域に溶け込み、信頼される存在を目指しているのは岡山工場の経験から。そして、飲食業は「人と人とが繋がる最前線」で、自分らしさが最も表現できる「場」。だからこそ、仕事というよりは部活的な感覚で、「大きいものを目指す」のではなく、「ミニマムで手の届く範囲の小さな幸せ」を追いかけて行きたいのだそうです。
見た目は穏やかで優しげな印象だけれども、内面は繊細で、感受性が豊かで、ルールや枠組みに縛られない自由な発想で「自ら切り拓きたい」というパンク・ロック的な価値観も持っている塁さん。
愛情深い人たらしとして、人と人を繋げるのが得意なのですが、カルピス社から後の人生においては、ご自身のキャリア選択も人との繋がり、縁の中で行ってきました。定期的にやってくる「自分の弱さ」と向き合わざるを得ない機会も、かおりさんを始め、たくさんの人との繋がりを頼って乗り越えてきました。何より、どんな困難も吸収して自分の一部にしてきました。
ご自身の体調のことも含めて、不安が無いと言えば、嘘になります。でも、塁さんからは「自分が決めたことだから迷いは無い」という清々しさと、やりたいことを貫き、自分の弱さもトコトン見つめてきたからこその強さを感じます。まさに、風の時代にピッタリのしなやかキャリア。どうぞ、さらに体調が回復され、これからも「5 bottles」から塁さんとかおりさんの笑い声が、ずっと恵比寿に響き渡っていきますように。
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<<その後の嬉しい追加報告>>
●その1 6月11日
担当医から「ここまで良くなったし、薬やめてみましょうか?」と言われ、この日が最後の通院日に。めまいを発症してから約1年9ヶ月、一時はほぼ聞こえなかった右耳の聴力も9割近く改善し、ずっとなり続けた耳鳴りもなくなったそうです。
●その2 8月13日 祝!「5 bottles」5周年!
私からはお二人にピッタリ、「多幸の木」「幸せを呼ぶ木」「健康」が花言葉のガジュマルをプレゼント💛
●その3 8月13日 祝!5周年と同日、オリジナルクラフトコーラ「エビスコーラ」発売開始!
皆さま、こぞって飲みに行きましょ♪♪♪
★ 5bottles_ebisu ★
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