「教壇で飄々とロックし続ける男」~Doingの背景のBeingを探る~「キャリクラ酒場」vol.11


いつになく、神妙に原稿を書き始めています。この私が、この方について文章を書くということ自体がとんでもない挑戦です。やめようかなぁ・・・いや、そういう訳にも行きません。


何故こんなに逡巡するかというと、今回の主役が現代国語の先生だからです。

しかも、言葉を大切にしてじっくり向き合うことを信条とされている、筋金入りの。偏差値エリートに、文学の面白さへの目覚めを内発的に起こさせてしまう、河合塾の名物講師、三浦武先生。

三浦先生は、1961年福島県生まれ。河合塾での現代文講師歴は25年を超えます。「文章を読むたのしみ」や「翻弄されないための教養」を説く講義が人気です。高校生や教員向けの講座の講師も担当されています。塾以外では読書会や、ライフワークの蓄音機を用いた音楽会なども各地で開催されており、アートの香りもぷんぷんです。私も、浩志会という官民連携の人財交流プラットフォームで初めて先生にお目にかかり、そのオーラとお話にひと聴き惚れして、キャリクラ酒場にお誘いしました。




キャリクラ酒場は11回目になりますが、コロナ禍の影響で、暫くはオンライン開催が続いていました。今回は約4年ぶりのリアル開催。しかも蓄音機の試聴会もセットの贅沢なプログラム・・・ということで、私の組合時代の朋友、鶴田塁さんがオーナーの5bottles(渋谷区恵比寿南1-14-1 山口ビル101)にて開催させて頂きました。

三浦先生は今でこそ、河合塾で東大現役コースなどを担当され、しっかり生徒を集める大人気看板講師ですが、その道乗りは、学生時代の生活のための塾講師のアルバイトがスタート。しかもご自身は二浪の末に入った中央大学を8年かかって卒業した経歴の持ち主。さらに、最初に教えていたのは世界史。その当時新たに契約に行った予備校で、現代国語講師の空きが出たと聞き、世界史よりコマ数の多い現代国語に切り替えて稼ぎを増やそうと「私は本当は現代国語の講師なんです」とハッタリで入り込みます。授業の中で、思考力をフル回転して自分の想いを自由に話していたら、段々と生徒に人気が出て、自分も面白くなってきたんですって・・・。


確かに先生のお話は、飄々としたユーモアと、反骨心溢れる熱い独白が混ざりあって、甘いのと辛いのが交互にやってくる様で飽きさせません。言葉を選ぶために時折考え込む間があって、それが予想以上に長く続くので、程よい緊張感も。



三浦先生が影響を受けたのは、何でも面白がる浮世離れしたお父さん、13歳年上のお姉さん、10歳年上のお兄さん。そのお姉さんやお兄さんの影響で幼稚園の時から聴いていたというボブ・ディランやローリング・ストーンズ。元・東大闘争全学共闘会議代表で駿台予備学校の名物物理科講師であり、予備校講師という文化を作り上げていた一人である山本義隆先生や、同じ河合塾の伝説の国語科講師で政治活動などもされていた牧野剛先生。


思想云々ではなく、その「熱く燃えるという姿勢」において学生運動に憧れを持った世代として、自分が予備校時代に習った山本先生や、同じ塾の大先輩であるの牧野先生の人間力魅力に魅せられ、三浦先生は、予備校講師を一生の仕事として捉える様になりました。


そして、小林秀雄。三浦先生は、「変なこと言いやがって」と闘う様に読んできたそうです。1983年3月1日、漸く全集を読み終わったその日に小林秀雄が亡くなり、なんだか勝手に縁を感じて、先生は小林秀雄のお墓参りに行く様になったそうです。「自分は小林秀雄に育ててもらったようなもの、感謝している」と仰います。




そんな三浦先生の個性は、子どもの頃からしっかり発揮されていました。

先生の話をろくに聞かない問題児として一番前の席を指定され、授業時間45分を使って1か月分の給食のメニューを丸暗記する技能を身につけ、「キングオブ給食」と呼ばれていた小学生時代。学校の廊下をバイクが走ったりする時代、ヤクザに青田買いをされる様な荒れた学生たちから、何故か推されて生徒会長になり、「文化祭で何故ロックをやってはいけないのか」と文化祭闘争めいたこともやった中学生時代。良い高校に行くためというより、勝負のために勉強をする、だから反発する先生の科目のテストは頑張って高得点を取っていた・・・など、反骨心の表し方もひと捻り。


中学の国語の授業で「走れメロス」を習った時、三浦先生は違和感を覚えました。物語の最後、少女が真っ赤なマントを裸のメロスに差し出しますが、国語の先生はそれを「美しいピリオドですね」と説明。「でもこの少女はセリヌンティウスの処刑を見に来た群衆の中の一人だ、その少女は本当に純粋な存在だと言えるのか?」三浦先生がこの疑問を先生に投げかけた時、先生は困った様な微笑を浮かべました。その時、悟ったそうです。「どうやら、学校で習う国語の授業には『感じ方』の正解があるらしい、じゃあ僕は興味が無い」その経験がトラウマの様になって、先生は暫く文学を読むのを止めてしまい、そのせいかどうかはわかりませんが国語の成績は「あまりかんばしくなかった」そうです。


次に進んだ都立北園高校には、三浦先生の様に自分の頭で考えて、行動に移す骨太な学生が沢山存在していました。まだ学生運動のにおいも残っている様な刺激的な校風で、ここで先生の個性は更に磨かれていきました。とは言っても、社会主義思想や共産主義思想を持っていた訳ではなく、ただ単に世の中や学校や先生に盾突きたかっただけだったそうです。


その一方、民衆の視点で独自の歴史観を打ち出した歴史学者の網野善彦先生の講義に触れ、学問の世界でロックする姿勢から刺激を受けたりもしました。


大学受験は難関大学を目指しましたが、模試の数学で5点など、見たことの無いような成績を取って、全く歯が立ちませんでした。合格していた私立大学では、何故か過激派と思われるオジサンに名指しで「三浦君、一緒に頑張ろうじゃないか!」と囲まれ、身の危険を感じて行くのを止めました。福島の実家に帰り、二度目の受験でもまたしても失敗。結局三連敗し、二浪の末に入った中央大学では、入試の成績が良かったので奨学金をもらったりもしましたが、そもそも文学系のくせに社会科学系の学部に入ったせいか、勉強をする気がまるで起きなかったそうです。


そこで、早くから学内政治・自治活動をしていたいわば「エリート」として、ひたすら学内の課題闘争に打ち込み、体育会などが抱える問題解決に向けて大学との交渉などに取り組んでいました。やりたかったというよりは、目の前に問題が次々に起きるので、それに追い掛け回されていたらあっという間に4年間が過ぎていった、という感覚だったそうです。やりがいはあったものの、やるべきことの山に追われて自分の生活は後回し。お金が払えなくなると、最初に止められてしまうのは電話、次に電気、ガス、最後が水道。水道が止まると四冠王で、三浦先生はそんな経験もされました。


そんな酷い貧乏生活の中で、当然もう大学卒業なんて出来ない、どうでも良いと思い、塾講師や運送業などのアルバイトをしてなんとか日々食いつないで過ごしていた三浦先生。ところが、授業料も払っていないはずの大学から「まだ籍がある」と声掛けがあり、驚いたとのこと。「せめて卒業はしろ」と言われ、その「親心」に感激し、三浦先生も死にものぐるいで学費を出すために働きながら勉強をして、4留年生として28歳で卒業します。


そんな先生に対して、三浦先生のお父さんが言ったことは「金を出してやれなくて悪かったな」だけ。ちなみに、三浦先生のおじいちゃんも、お父さんも、お兄さんも、2人の息子さんも、全員大学中退だそうです。(2人の息子さんのうち、上の息子さんだけは再度行き直して卒業されました。下の息子さんは某芸能学院に転じてお笑いの世界に。)

三浦先生は、勉強の苦労など知らないように見える並外れた秀才たちを「サイコロで6ばかり出す奴」と喩え、自分のことは「1と2の目しかないサイコロだった」と振り返ります。


「自分の人生に秀才であった時代は無い。そのうえ学生生活ももうボロボロで、つまりちゃんと生きてこなかった。でも、だからこそ、私は浪人生や、挫折した諸君に語る言葉を持っているような気がしたのです。」


そんな三浦先生にとっての予備校とは、どんな場所なのでしょうか?


「予備校は、真ん中の、ちゅうぶらりんの場所です。高校や大学の先生は正しいことを話して教えなきゃいけない。でも、予備校は自由です。思考力を鍛えるなどと言うが、教師が思考のモデルを持っていて、それに合わせて語る人間に思考力があるとは思わない。思考力の出発点は妄想。どうせ間違っているだろうが、間違っているのは後で大学に行って習えばいい。脳みそをフル回転させて自由に色々と考えるのは楽しいに決まっている。なのに、今の教育からはそういう場が失われていないか。今の生徒達はなかなか発言しない。なぜならば、自分の発言が正しいかどうかで迷うから。」


同時に、浪人生活の価値の大きさも、痛感していらっしゃいます。


「浪人生は卒業後、たいてい『予備校の方が良かった』と言います。もっともそう思っているような青年しか私のところに来ないというだけですが。彼らは受験に失敗した時点で、自意識をくじかれているから、口を開けて他者を受け入れるしかない。だから彼らは人の話をよく聞くし、笑う。違和感のある言葉も一旦聞き入れて、葛藤する、それで知的にも人間的にも成長する、そういう実感があるんでしょう。いまの大学にそういうものがあるだろうか。予備校で教えていることなど実は大したことでは無いけれど、自己解体の場ではあります。特に現代文で扱っているのは人の思想。自分は、学問の、そして生きることの動機付けをしたいと思ってやっています。」


三浦先生のお話を聞いていると、自分が浪人して予備校生活をしなかったことが悔やまれてきます。でも、看板講師である先生が今担当されているのは東大、国立医学部、京大、東北大など、超エリートコース。高2なのに東大オープン模試で全国何番かに入っちゃう生徒など、先生の教え子には所謂「サイコロで6ばかり出す諸君」も多い訳です。


「『サイコロで6ばかり出す諸君』は何を見聞してもすぐに自分の解釈系で消化できてしまうので、他者に対する敬意というものを持つチャンスが少ないのではないか。そして、他者に対する認知・共感能力が無いと、ろくでもない奴になってしまうんじゃないか。だから彼らには、この2浪4留の身をもって、『君らみたいなのだけが人間じゃねぇぞ』と話します。トロい奴は、トロいからこそ、その場でじっくり、沢山のことを見ている。トロいからこその人生の面白さがある。君らは文章を読むのも早いけれど、それは勿体ない。結論だけ求めても、解ることは少ない。ひらがなひとつひとつをじっくり読んでみろ、もっと色々なことが書いてあるかもしれないぞ、と。」


「彼らは評論などの大意を取る能力が高くて、入試問題なども上手く解いている様ですが、そのわりにちゃんと読めてはいません。そこで、受験勉強のことは一旦忘れて、この文章を書いている奴が一体どんなことを考えているのか、肉声を聞いてみようぜ、とけしかけると態度が変わってきます。」


そんな三浦先生の人生にとっての幸せは、やはり寝ても覚めても「言葉」。年間に読む本は数十冊ほどでしかないけれど、これはと思った本を繰り返し読むのだそうです。300回くらい読んだものもあるとか。そうやって非効率的に、トロいことをやっているからこそ見えてきたもの、解ってきたことがあり、それを自分より少し若い世代に残していきたいとも感じ始めているそうです。


「優れた予備校の講師は、たとえば事前に解答をこしらえた問題を、教室でもう一度自分の頭で考える、すなわち思考をゼロからあらためて立ち上げていると思います。そこに生徒を誘い込む。大学院を出たりして専門知識の豊富な講師は、しばしばその知識が邪魔になったりしている。生徒と一緒に思考することができていないことがあります。優秀な頭脳が活かされていないわけです。『カリスマ講師』は案外ダメなんです。どういう風にゼロからの思考の立ち上がりを見せられるか、それが一番大事です。そして、生徒だけではなく、高校や大学の先生からの目線も意識しながら、仕事をする必要があります。」


既に第一定年を迎え、現在は再雇用中の三浦先生。本当なら少し自由な時間ができるはずなのですが相変わらず忙しい・・・お父さんから贈られた「仕事は過剰にやったほうが面白い、言われたことだけをやるのは服従であり退屈だ」を信条にやってこられた三浦先生。今後のキャリアの展望は?の質問に「そろそろ、これからのことを真剣に考えないといけないな、と考えています」と仰っていました。


今回のキャリクラ酒場は、予定していた1時間半は大幅にオーバー。多岐に渡る質疑応答の応酬があり、更に蓄音機で美しい音色を聴かせて頂いたお蔭で、参加者の感想も濃密なものになりました。



「『文章は先ず書いてある通りに読め』私には深い言葉でした。」


「三浦先生のキャリアのお話しを聞いて、自分は今まで何の問題意識を持たず、体制に逆らわず安きに流れて60年生きてきてしまったなと自戒すると共にこれも自分の気持ちに逆らわず生きてきた結果やから仕方ないと思う気持ちが混在してました。」


「三浦先生は、ご自身が心豊かに生きてこられただけでなく、『心の豊かさ』のバトンを前の世代から受け取って次の世代に渡すような生き方をなさってきたように感じました。河合塾でのお仕事は、牧野先生など諸先輩から受け取ったバトンを後輩講師や教え子に渡す、という活動でいらしたように思いましたし、蓄音機やレコードも、世代や国を超えて『心の豊かさ』を受け取り、感じていらしたという歩みでいらっしゃったように感じました。」


「当日は家に帰るないなや、妻に三浦先生の事やそのお話、さらに蓄音機に関してつらつらと喋りまくっており『楽しかったんだね』としっかり承認されました(もうそろそろ話すの終わりにすれば、という合図です) 三浦先生のお話もさることながら、ちょっとした仕草が面白く(特に次男さんの落語家志望に対してのイイネ!の所作とか、先生が落語家やん、と心の中でつっこんでました)、耳にも目にも(お料理も美味しかったので舌にも)心地良かったです!」


「帰り際、三浦さんに蓄音機の針とそのパッケージ缶を見せていただきました。その小ささ、1回で役割を終える儚さの中にこそ、物作りに対する計り知れない思いが溢れていて素敵でした。私もこれから長くこの小さな店を続けていきますが、その大切さを感じさせてくれた気がします。」


私自身も、もっともっとお話をお伺いしたかった、先生のキャリア・コンサルティング、是非とも引き受けさせて頂きたいなぁ~とおこがましい妄想をしながら、帰途に着きました。

三浦先生、参加して下さった皆様、本当に有り難うございました!



CAREER CLIMBING

自分らしい生き方・働き方を探す、大人のためのキャリアの学校

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